20040401句(前日までの二句を含む)

April 0142004

 白飯に女髪かくれて四月馬鹿

                           秋元不死男

語は「四月馬鹿」だが、さあ、わからない。わかるのは「白飯」とあるから、白い米の飯に乏しかった戦中戦後の食料難の時代の作句だという程度のことである。そこで、ああでもないこうでもないと散々考えた末に、勝手にこう読むことに決めた。したがって、これから書くことは大嘘かもしれません(笑)。まず漢字の読みだが、「白飯」は往時の流行語で「ギンシャリ」を当て、「女髪」は「メガミ」と読んでみた。「メガミ」は「女神」に通じていて、しかし作者の眼前にいる女性をそう呼ぶのは照れ臭いので、少し引いて「女髪」とし、髪の美しさだけを象徴的に匂わせたという(珍)解釈だ。ただし、古来「女の髪の毛には大象も繋がる」と言うから、まんざら的外れでもないかもしれない。こう読んでしまうと句意はおのずから明らかとなる。すなわち、色気よりも食い気先行ということ。久しぶりの「ギンシャリ」にありついて、その誘惑の力の前には「女神」も「女髪」もあらばこそ、「白飯」の魅力に色気はどこかにすっ飛んでしまったと言うのである。すなわち自嘲的「四月馬鹿」の句であり、可笑しくも物悲しい味のする句だ。おそらく同時代の作句と思われる句に、原田種茅の「四月馬鹿ホームのこぼれ米を踏む」がある。闇屋がこぼしていった米粒だろう。気づかずに踏んでしまってから、「痛いっ」と感じている。人目がなければそっとかき寄せて、拾って帰りたいほどの「米」を踏んでしまった「馬鹿」。半世紀前には、こんな現実があったのだ。それにつけても、昔から「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、しかし、足りすぎると今度は現今の我が国のようなテイタラクとはあいなってしまう。そういえば、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とも言うんだっけ。まことに中庸の道を行くとは難しいものである。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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